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精神的自由権と経済的自由権を区別する意味って何?自由権と社会権の区別に続き、自由権の中身を掘り下げます!!

2021年2月6日公民,社会

先日、自由権と社会権の区別について書きました。自由権は国家権力から放任される権利、社会権は国家権力に対して請求する権利という大きな区別をわかっていただけかと思います。しかし、今度は自由権の中でも、精神的自由権と経済的自由権という区別が存在します。いったい精神と経済を分けることにどんな意味があるの?その疑問を解決していきたいと思います。

目次

精神的自由権とは?

私たちが個人として尊重され、人間らしく生きるためには、自由に物事を考え、行動できることが重要です。したがって、何を考えるのか、何を発言するのか、どこにいって何をするのか、これらのことは国家権力から干渉される理由はありません。したがって、よく警察官に職務質問されてしまうあなた?!あなたがどこで何をしようが、本来警察官にとがめられる理由は何もないのです。ましてや、荷物の中身を聞かれたり、見られたりしたことがある人は、これこそ国家権力の暴力です。自由権の中でも身体の自由(憲法31条以下に規定)を侵害している可能性がありますので、毅然とした態度で、人権侵害の可能性があるので、弁護士に連絡します!!と言い放つべきなのです。

では私はというと。学生時代たまに自転車に乗っていると盗難自転車ではないかと警察官に呼び止められることがありました。法学部の学生ですので、心の中では猛然と戦っています。

お巡りさん

自転車から降りて、防犯登録の番号を見せてもらってもいいですか?

pero

(何の権限があって、人に停止を求めているのだ?怪しいからと言ってそんな質問をしてくることは、国家権力の横暴だ!!断固として拒否してやる!!)という気持ちはさておき、
ご苦労様です。確認してください。自転車の盗難ってやっぱり多いんですか?

お巡りさん

ご協力感謝します。あなたの自転車で間違いないですね。
そうですね。近頃自転車の盗難が増えていますので、お気をつけください。

無駄に喧嘩しません。言い返してかえって揉めるのは怖いですから。権利行使はいざという時までとっておくスタイルです!!

話はそれましたが、自由な行動が規制されそうになることを禁ずるのが自由権の正体です。そして日本国憲法が保障している精神的自由権の中には、次のようなものが定められています。

  • 思想良心の自由(第19条) 自分で物事を考え判断する自由
  • 信教の自由(第20条) 宗教を信仰するかしないか、どの宗教を信仰するかを自分で決める自由
  • 集会・結社・表現の自由(第21条) 人々が集まる、団体を作る、意見を発表する自由
  • 学問の自由(第23条) 自分の好きなテーマについて研究し発表する自由

周りに何らかの形で表現しない限り、自分の頭の中で考えるだけであれば、絶対に自由です。どんなにひどいことや犯罪に関することでも、頭の中で考えているだけで不利益を受けることはありませんので、安心してください。しかし、まだ実際に行動に起こさなくても、犯罪の予兆があっただけで、逮捕され裁判で裁かれてしまう、そんな世の中になったらどうしますか?というテーマで描かれた映画が実はあります。かの有名なスティーブン・スピルバーグ監督が2002年に公開した「マイノリティ・リポート」という映画です。下にリンクをはっておきますので、興味のある方は、あらすじだけでも見てみて下さい。

頭の中で考えることというのは、人の気持ちに反映します。精神に反映します。そして、それが人の表現や行動になって表れてきます。したがって、頭の中で考えるだけでなく、その考えに基づいて人が表現したこと、行動したことについても、国家権力は干渉してはならないのが原則となります。ただ、その表現、行動が犯罪を構成したり、周りの人々を傷つける場合は別です。人を傷つけることまで憲法は我々の自由を保障してはいません。したがって、原則としては自由だけれども、万が一人を傷つけている可能性があるかもしれないので、前に書いた警察官の職務質問も許される余地が出てくるのです。

しかし、他者を傷つけない限り、精神的自由権は憲法上保障されることになります。

経済的自由権とは?

私たちが生きていくためには、家に住み、仕事をして収入を得て、生活をしていかななければなりません。そこで、憲法は、以下の権利を経済的自由権として保障しています。

  • 居住・移転・職業選択の自由(第22条) どこに住むか、また転居するか、どんな職業を選ぶかの自由
  • 財産権の保障(第29条) お金や土地、財産を持つ権利

どこに住むかを決めることを国家権力がとやかくいう場合を想定できるでしょうか?令和のこの時代ではなかなか想像がつきませんが、昔は、人というのは領主の持ち物でした。農民は田畑を耕し、年貢を納めてもらわなければなりませんし、農業ができない冬場は戦争で戦ってもらわなければなりません。したがって、貴重な働き手であり、かつ戦力である人間が勝手にどこかに引っ越しされては困るのです。したがって、居住・移転の自由などというのは、ここ最近認められてきた権利です。

現在制限されるとすると、例えばコロナウイルスに感染したような場合、重症になれば、強制的に病院に入院させられ、自由に帰ることはできませんし、ホテルでの療養となれば、こちらも外出は禁止です。また、犯罪を犯したとして在宅で起訴されていたり、保釈中の被疑者、執行猶予中の者や、仮釈放中の受刑者も居住地は制限を受けます。これらの人々は、先ほども述べましたが、他者に害を加える可能性があるため、居住・移転の自由が制限されます。

また、職業選択の自由も昔は、認められていませんでした。江戸時代には士農工商という身分制度がありましたが、農民の家に生まれた者は、基本的には農民として生涯を終えます。農民出身で武士になるようなことは異例のことですので、豊臣秀吉などの経歴は歴史に残る大事件とされているのです。

現在でも、たとえば、資格制を採用しているような職業は自由につくことができません。明日から自分は医者だ!!と言ってみても、日本では医師免許がなければ、医師として認められません。また、裁判官や検察官、弁護士や司法書士なども、資格がなければ就くことができませんので、職業選択という面からすると、完全なフリーではありません。しかし、なぜ資格制度が許容されているかというと、医師の国家試験にしても、司法試験にしても、受験することは自由です。受験資格に制限が儲けられると、職業選択の自由の侵害の問題が浮上してきますが、だれでもなり得る可能性が残されていれば、憲法違反にはなりません。

そして、財産権ですが、財産を個人が自由に持つことも禁じられていた時代がありました。墾田永年私財法という名前を聞いたことがあると思いますが、この法律ができるまでは、土地は領主のものでした。しかし、財産も私有できるものとされ、それを妨げてはいけないということが、憲法に記されています。これが、経済的自由権の内容になります。

自由権を精神的なものと経済的なものに分けて考える理由は何か?

ここまで、精神的自由権と経済的自由権にわけて見てきましたが、なぜわけて議論されるのでしょうか。国家権力から放任してもらうという面では、どちらも共通ですので、分ける必要はないようにも思います。

ここから大切な部分について述べます。人権は憲法にまで記された重要な権利ですが、人権が侵害されることが許される場合というのはあるのでしょうか?人権侵害は一切許されないのでしょうか。たとえば、週刊誌などが芸能人の不倫などの記事を書くことがありますが、週刊誌が記事で事実を報じることは、憲法21条1項の表現の自由で保障されます。ただ、報じられる芸能人は、書かれたくなくてもそれを我慢しなければならないのでしょうか?また、書かれた内容もすべて本当であれば良いですが、中には根も葉もない噂話があたかも本当のことであるのかのように書かれることもあるでしょう。週刊誌は、仮に嘘の話題でも、表現の自由によって保護されるのでしょうか。書かれた芸能人は、週刊誌の発行者に対して、発売の中止を求めたり、間違っている内容の訂正や謝罪を求めることもできないのでしょうか?

そんなことはありません。人にはプライバシーの権利や、名誉を傷つけられない権利が認められています。したがって、週刊誌の記事が、芸能人のプライバシーの権利や、名誉という人権を傷つけるのであれば、週刊誌の表現の自由には制限が加えられることになります。例えば、出版社が謝罪記事の掲載や、損害賠償をしなければならないこともあるのです。このように、憲法は人間に人権を認めていますが、人権は絶対に無制約ではありません。人権の行使が他者の人権を傷つけるような場合は、自分の人権を行使できない場合というのが考えられます。そうでなければ、みんなが好き放題できることになり、それこそ喧嘩が絶えなくなってしまいますから。

たとえば、①先ほどのコロナウイルスの例などがわかりやすいでしょうか。自分がコロナウイルスに感染している。そうだとすると、自由に街を出歩くことは禁じられます。これは客観的には移動の自由の制限になります。しかし、自分は今日、外へご飯を食べに行きたい。でも保健所はダメだという。人権侵害だ!!ということで裁判所に救済を求めた場合、どんな判決が下るのでしょうか。

先ほどの週刊誌の例も考えてみましょう。②取材をしていたら、どうやらある芸能人が不倫をしているらしいという証拠がつかめた。芸能人は社会的にも影響を持つので、表現の自由に基づいて、不倫の記事を書いて売り出しました。しかし、その芸能人から、プライバシーの権利の侵害だ、名誉棄損だとの理由で、裁判所にその記事の載っている週刊誌の発売中止と、名誉を傷つけられたことによる精神的な苦痛を慰謝するための賠償金の請求がされた場合、裁判所はどのような判決を下すのでしょうか。

①は経済的自由への制限の問題、②は精神的自由への制限の問題です。具体的な事件に応じて、判決の内容は異なりはしますが、大きな枠組みとして、②精神的自由への制限は慎重にされなければならないという判断がされる傾向にあります。

例えば、昔日本には不敬罪という犯罪がありました。天皇陛下に対して、失礼なことをしたり、発言をすることを犯罪とする法律です。天皇陛下に対しては、敬意を払わなければならないことを当然の前提としているのです。仮に心の中で、天皇陛下や天皇制に反対していても、天皇陛下を悪く言うことはできないのです。言えば、犯罪にされてしまいますから。今では、不敬罪という犯罪は刑法から削除されていますが、その犯罪が残っていたとして、自分が仮に不敬罪という犯罪はなくすべきだと考えたとしても、不敬罪に反対と主張すれば、天皇への不敬があったとして、犯罪に問われる可能性がありますので、なくすべきだという主張すらできないことになってしまうのです。これは非常にまずい。日本が採用している民主主義は何でも話し合いで決めていくことを建前としています。しかし、不敬罪について話し合おうという提案自体が不敬罪にあたるのであれば、そもそも話し合いすら始めることができないことになってしまいます。

つまり、天皇に対して、悪く思ったり、悪く言ってはいけないという形で、思想良心の自由や表現の自由といった精神的自由を制限してしまうと、それを話し合いの中で解決することができなくなってしまうのです。一方、経済的自由権はそのような問題は生じません。コロナウイルスに感染している人が出歩くことで、他の人にも感染させる可能性があるため、出歩いてはいけないという制限がかされますが、出歩いてはいけないと言われた人は、自分が出歩いても、他人に感染させる危険性がないことの根拠があるのであれば、それを裁判で自由に主張することができるのです。言いたくても言えないという状況に追い込まれることはありません。出歩くのを禁止するという制限が許されるのか、許されないのかといった判断を話し合いという民主主義の中で決着をつけることができるため、精神的自由に対する制限ほど慎重になる必要はないという形で考えられています。

また、職業選択の自由を広く認めると、医学の知識がまったくないのに、勝手に医者を名乗り、健康な人の命を奪って金儲けをすることなども認められてしまうことになるため、経済活動の自由は、精神的自由と比べて、国が法律で制限をする方が、多くの人間が幸せに暮らせるというふうにも考えられています。

まとめ

よって、精神的自由と経済的自由をわける理由は、次のふたつにまとめられます。

  • 精神的自由は経済的自由よりも傷つけられやすく、いったん傷つけられると、民主主義の過程での回復が困難になるため、制限が許されるかどうかを慎重に判断する必要があるため、わけて考えるべきである。
  • 経済的自由は、お金に関する自由であり、自由を認めると一部の者だけが暴利をむさぼり、貧しいものはますます貧しくなるといった貧富の差が拡大しかねないため、国家による制限は精神的自由よりも大きくても構わない。

といった視点で考えられています。自由権の侵害があった場合に裁判所がどの程度積極的に人権保障をするのかの基準が精神的自由権と経済的自由権では異なっているのです。したがって、このふたつをわけて議論する必要があるのです。

教科書などを見ていると、当然のように区別し、区別の理由は書かれていないことが多いですが、区別の理由がここにあることを意識することで、より人権への理解が深まることと思いますので、参考にしてくだされば、幸いです。

2021年2月6日公民,社会公民,精神的自由権と経済的自由権

Posted by peroparo