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簡単そうで難しい平等権の話 形式的平等か実質的平等か。

2021年2月11日公民,社会

読書好きの生徒

むかしむかしある所に、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ選択に行きました。するとどうでしょう・・・。

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おっ、その書き出しは桃太郎だね。吉備団子は吉備地方で作られたからきびだんごなのか、「きび」という穀物を使ったからきびだんごという名前なのか、どちらだろう?

今回は、昔話でおなじみの桃太郎からスタートです。きびだんごのくだりはこれ以降触れませんので悪しからず。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきますが、これって男女差別入ってますよね?男は外に、女は家事をという固定的な役割分担が日本では根強く残っていると言われています。しかし、これは憲法14条の平等原則に抵触しないだろうか。平等権ってどんな権利なのかが、今回のテーマです。

目次

平等権とは?条文を確認しておきましょう。

日本国憲法14条には、平等についての規定が置かれています。
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。華族その他の貴族の制度は、これを認めない。…。」

これが日本国憲法の平等に関する条文です。他にも結婚について、教育について、政治参加についてそれぞれの規定が用意されていますが、これが根本お条文になります。これを見ると、歴史的に色々な場面で差別が行われてきたことがよくわかります。黒人であることを理由にする人種差別、女性であることを理由にする性差別、部落出身であることを理由にする部落差別など、あげればきりがありません。なぜ人間は差別をしたがるのか?というのは壮大なテーマですが、ここでは差別があることを前提として、差別を禁じ、平等を実現するためにはいったいどのように考えていく必要があるかについて考えてみたいと思います。

私、男ですが、女子高に入学できますか?

今回はイメージしやすいように、男女差別について考えてみたいと思います。学校には、男女共学のものもあれば、男子校、女子校と特定の性別の者しか入学を認められないところがあります。今回は男子でも女子でもないという方々の話は一旦おいておきます。

共学でもある大学では、入試の得点を男子だけ加点をして、男子の方が合格しやすくするといった事件が報じられたこともありましたが、今回は逆差別の問題です。女子高に進学したいと男子生徒が願書を提出したところ、受け付けてもらえませんでした。これについてどう考えますか?

何が問題になるのでしょう?

男子しか認められていないことというのは、意外と多いです。昔は、選挙権は男子だけ、買い物ができるのは男子だけ、神事に関われるのは男子だけ、(これは今もですが…。)と男子だけはしていいといった事柄は非常に多いです。例えば、相撲の土俵には男子しかあがれないため、当時の大阪府知事だった太田房江氏の登壇を相撲協会が拒んだというニュースもありました。

これらは、女性差別です。差別はいけない。女性にも開放するべきだという形での議論はよくされてきました。しかし、今回の場合は逆です。女子のみが入学できる学校があり、男子の入学が拒まれている、男性差別です。これが私立高校の場合は、私人である私立高校と男子学生の間に憲法の平等原則の適用があるのか?といったまた難しい問題が出てきてしまいますので、公立の女子校と男子生徒の問題としておきましょう。

この女子高は、男子であることを理由にこの男子生徒の入学を拒んでいますので、形式的に見ると、性別による差別にあたります。それでは、男子の入学を認めなければならないのでしょうか。もしそうであるならば、そもそも男子高、女子高といった枠組み自体が意味をなさないことになりますので、学校は全てを共学にすべきことになります。しかし、実際に男子のみ、女子のみという学校が存在している以上、こういった学校が存在することと、性別を理由に入学を拒否することは憲法14条の平等原則には違反しないという結論が出なければなりません。

平等原則は形式的平等を意味しないという考え方。

前述した通り、この女子高は男子を差別しています。しかし、なぜ男子の入学を拒みたいのでしょうか。その理由を考えてみます。理由はたくさんあるとは思いますが、女子のみが在籍する学校を作ろうと考えるのは、女性の進学率が低かったり、共学では男性の方が優遇されてしまうといった事例も多数観察されたため、女性が十分な教育を受けられる場所を作りたい。また、学校で異性を意識することにより、勉学に集中できない状況を回避するなど、男女を分けて教育することのメリットは一応納得することができるでしょう。

しかし、もし共学しか認めないとすると、このようなメリットを女性が受けることはできなくなります。このメリット犠牲にしてまで、男女平等という形式的な平等を要求すべきかが問題となります。

憲法は14条で性別による差別を明文で禁じているため、男女差別は絶対に許されないとも思えます。しかし、憲法が男女差別を禁じた趣旨は、歴史的に劣位に置かれることの多かった女性の地位を保護することに他ならないと考えることができます。そうだとすると、この事件で男女平等を実現しようとすると、劣位に置かれていた女性の地位をますます悪化させるという結論が導き出されてしまいます。これは本末転倒と言わざるを得ません。

憲法は、形式的な平等を要求するのではなく、差別がない状態をつくりだすための実質的な平等を要求していると考えるのが、人権保障という憲法の目的にかなうものと考えることができるでしょう。したがって、この事案でも実質的に考える必要があります。女子のみが入学を認められる学校の存在は、女性に学ぶ機会を与えるといった点で、その目的に正当性はありそうです。確かに、その男子生徒は、その女子高での教育は受けられませんが、他の男子校や他の共学の学校はたくさんあり、そもそも教育の機会が閉ざされてしまうわけではありません。

そうだとすると、この学校が男子生徒の受け入れを拒むことが、この男子生徒に対して受け入れがたい苦痛を強いるといった関係にはないと考えられるため、実質的な平等に反するとは言えないと考えることはできないでしょうか。

このように考えると、平等権には反しないという結論を導くことができます。

平等をどう考えるか?

このように平等とは、何でもかんでも同じ状態を作り出せば良いというものではありません。同じ状態を作り出すことが、かえって不平等をもたらす可能性も考えながら適用していかなければなりません。とはいえ、相撲の土俵に女性があがってはいけないといったしきたりなどは本当に必要なのか、疑問に思うものが多いものもまた事実です。どういう目的でその差別規定が置かれているのか、その差別を撤廃したらかえって不平等な状態を作り出してしまわないのか、この視点が平等を考えていくことが大切であるという結論を述べて、今回は終了します。

2021年2月11日公民,社会公民,実質的平等,平等権,形式的平等

Posted by peroparo